「人間なんて死んでしまえば、骨壺の中でカサコソ鳴る只のカルシウムだ」と安部公房はテレビの中で言っていた。この言葉に私は強く納得した。
「しかし、残された者の心の中には、思い出として存在する」と、おぼろげな記憶だが、このようにも言っていた。
その「思い出として存在する」夫の両親の墓参りに行ってきた。
平良から大原まで、車で丁度40分。
大原の里は10時前で、すでに観光客や車でごった返している。
いつもの様に「里の駅」でお墓に供えるお花を買う。夫の両親は薔薇やトルコキキョウが好きだった様に思う。
「お父さん、お母さん。そんな花は高いんですよ」と、私は里の駅で売られているコスモスや農家の庭に咲いている花のブーケを買う。
お彼岸の、そして今日は日曜日。里の駅の中は身動きが出来ない程の人、人、人で、早々に車に戻り京都市内のお墓に出発する。
子供の頃から、墓参りという習慣がない夫は、めったに墓参りはしない。
今回も「遥拝」で済ますと言った。
夫の「思い出の中に」濃く「存在している」父と母。それでいいだろうと、私も誘わない。
たわしで洗って、水をかけ、花を生け、手を合わせる。
お墓の前から立ち上がると、遠くに比叡山が見える。
「又来ます」と心の中で挨拶。
1時過ぎに平良に帰った。
お昼ご飯の後で、夫は昼寝をしていた。
「ただいま」と私が言うと「ありがとう」と夫が言う。
お墓参りから帰ると何時もこうやってお礼を言う。